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2007-03-28

[]いじめと現代社会(14) いじめと現代社会(14) - モジモジ君の読書記録。みたいな。 を含むブックマーク

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

 前半はとても勉強になるなぁ、と思いながらサクサク読む。後半だんだんとストレスがたまっていって、宮台氏との対談では違和感ばかりが先にたつ。

 結びの一句、「永遠に暫定性の地平で踏みとどまるタフさ」。この言葉の文言には深く共感するのだけど、宮台の言うのと僕が考えるのは全然違うだろう、ってことはわかっている。宮台の言う暫定性とは、ローティのそれであり、その根っこにあるクーンのそれであり、寄る辺なき相対主義の中での無根拠性に耐えるという意味。僕の考える暫定性とは、漸進的に近づいていく統制的理念としての真理・正義を想定する立場であり、ポパー、あるいは(伝え聞くところの)デリダ的な暫定性である(もっとも、ポパーもデリダも、一般的にそのように読まれているかどうかについては疑問だらけだけど)。やっぱりクーンについては一度きちんと考えておかないといけない、という意を強くした。

 それは、対談中の次のような部分にも現われる。

 たとえば、援交は絶対に許さず、「仲間の誰かが援交やったら、そいつにはヤキを入れる」、という秩序があったとします。それに対して、「他人が援交してもいいけれど、私は絶対にしない。だけど援交をする他人が、援交をしない自分と違うからといって、殴ったり侮辱したりするのは許せない」という秩序もありえます。私は、前者のような秩序から後者のような秩序に変化しているように思えます。つまり、共通の感情の自明性(たとえば「援交」はおぞましい)による秩序感覚が弱くなったぶん、ほかの人の自己決定を踏みにじったり、自分と違う生き方をしているからといって迫害してはいけないというリベラルな秩序感覚は、昔よりも強くなっていると思います。(p.182)(内藤氏の発言)

 こういう枠組みで抜け落ちているように思われるのは、たとえば私が援交を否定的に観念しているとして、それをしている誰かに、「どうしてそういうことをするの?」とか、「そういうのをしてはいけない」とか、語りかけたり、反論されたり、といったコミュニケーションの位相がどこに位置づくのか、という点だ。リベラル派の多くは、こういった「口出し」そのものを「迫害」として批判したりもするのだが、そこで開かれる問答無用性というのは「口出しする奴にはヤキを入れる」という排除システムであり、「援交する奴にヤキを入れる」秩序と大して変わらない。

 これとは異なる論点としては、「右でも左でもない独立勢力」という言い回し。こういう陳腐な構図自体、僕は正直辟易している。左を自認する人にはいろんな人がいるのであり、だから「左翼」という総体を名宛人としてなされる批判は必ず無内容になる。その右でも左でもない人たちがやろうとしていることって、ある種の左翼を自認する人たちが既にやったり言ったりとしていることだったり。それって、左翼を自称するか、右でも左でもないと自称するかの違いしかないじゃんか、とよく思う。

 それと、細かい話になるけれど、「精神的売春」という用語はどうなのか。僕は売春については、売春というものがネガティブに表象されるべきものかについては、僕はそういう要素があると思っているけど、しかし、一応は争いのある問題。また、こうした語法を宮台氏がスルーしているという点も、ちょっと日和見に過ぎるんじゃないかと不信感を持つ。

 とまぁ、悪口ばかり書いたけれども、内藤氏の言う「生態学的設計主義」はおもしろい発想であり、一度学んでおく価値は絶対あると思うのだ。なので、僕個人としても、↑に述べたような不満を覗けば、基本的には読んで勉強になったよい本。というわけで。★★(2007/03/30)